バイバイ原発・京都 のブログ

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【あまりにも低水準で無責任 原子力村のマスコミ人の典型】産経新聞(「新春・安藤慶太が斬る」)−「原発を即刻再稼働すべきである」「原発をどうするか、という中長期的課題よりも、日常生活に必要な明日の電力確保に困らない状況を早急に構築すべき」

あまりにも低水準で無責任、原子力村のマスコミ人の典型とも言うべき産経新聞の記事です。反面教師として掲載します。

 産経新聞編集委員が「プロ市民」使用ですか。「2ちゃんねる」並みですね。何としても原発を動かし続けたい勢力の焦りがひしひしと伝わってくる文章です。

 「被曝」を「被爆」と書くなど小学生の作文程度の低レベルな文章ですが、それだけに彼らの議論が科学的な見地や原発事故の避難者への思いやりなどとは一切無縁の東電擁護の極めてイデオロギッシュなものであることがよく理解できる文章です。まさに「反原発反日左翼」「おまえら原発反対なら電気を使うな!」(まさにこの文章の内容です)と大阪での数千人の反原発デモに対してわずか10人にも満たない極少集団でわめき散らしていた「在特会」並みの幼稚園児的思考の見本と言うべき文章です。

 こうした信じがたい低レベルのイデオロギッシュな議論で国民に原発との心中を強いる(まさに「神州不滅」「一億玉砕」を叫んでいた戦争中のマスコミと同じ)原子力村在住のマスコミ勢力を絶対に許してはなりません。

 管理人


産経新聞/「新春・安藤慶太が斬る」】
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120101/trd12010112010004-n1.htm

(上) 原発を即刻再稼働すべきである

2012.1.1 12:00

 明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願い致します。

 さて新年一回目に何を取り上げよう、とあれこれ考えてみたのだが、久しぶりに原発の問題を考えたい。全国の原発が次々と停まっている。一向に再稼働に向けた積極的な動きがみえてこない。このまま行けばいずれ深刻な電力危機に直面するだろう。即刻、原発の再稼働を決断すべきだと思う。すでにこのコーナーでは二度にわたって取り上げたテーマであるが、原発再稼働を年の初めに改めて訴えたい。

願望ではどうにもならぬ

 震災直後のことだ。私自身が敬愛する知識人が原発に疑問を呈し、NOを唱える論文に出くわし大いに衝撃を受けた。そういう選択は果たして妥当なのか、とその時以来、考え続けている。

 いうまでもなく電気は国力の源である。太陽電池だ、風力発電だといってもそれが原発に代わる安定的な主力電源になるには、課題を抱えている。ただちに、頼りにできるわけではないのである。これから時間をかけて、研究や挑戦を重ねていきましょう、今の原発に代わる代替エネルギーを育てて行きましょうという話なら異論はない。だが、願望だけでは今はどうすることもできない問題があることもしっかり認識しておくべきだし、今の国力を殺ぐことや国民生活に影響を及ぼすことは許されないと思う。原発をなくせ、という議論の多くがそうした観点に乏しいといわざるをえないのである。

原発ファッショ」

 政府は何をすべきなのか。とにかくまずやるべきことは電力の安定供給である。ところが、突如として超法規的なストレステストを打ち出したり、エモーショナルに原発を弄ぶ光景が続いている。

 プロ市民による原発アレルギーや放射線への不安に乗じた煽りとしか思えない“原発ファッショ”的な言論空間にも異を唱えなければならない。彼らが原発政策をかき回しているのはたしかであって、彼らに気兼ねして、正常な議論が成り立たない、あるいは国民が不安へと駆り立てられ、本来政治が成すべき電力の安定供給がままならない状況は今も横たわっている。これはいずれ糺されなければならないと考える。

覆水盆に返らず

 電力供給はあれこれ工面して結果的に足りてました!ではダメだということも指摘しておかねばならない。電気が供給されるかどうか。あるいは供給されたとしても企業が電気供給に不安を抱いたり、料金が不安定ではダメなのだ。こうした不安自体を払拭しなければ、企業は日本に根付かない。

 海外移転は食い止めなければならない。政治はそういう根本的な問題を直視して、対策を考えているのだろうか。場当たり的な対応ばかりで本質的な問題から腰がひけていると思えてならない。

 一度、海外に移転した企業はあとで電気を十分に用意したところでそんなに簡単に戻って来ることなどできない。韓国や中国が食指を伸ばして日本の企業誘致に精を出している。こうしたなかで我が国の国力を維持するためには、電力を安定的に供給する。これは喫緊の最優先課題だろう。

万能無敵な不安社会

 昨年の夏以降、いろいろなことが原発をめぐって起きた。がれきの処理が進まない問題でも食品の安全性についても放射線に対する漠たる恐怖があって、敬遠されたり、過剰な基準を設けてしまう。問題は、この漠たる不安である。

 被災地を応援しよう!と開設したアンテナショップが放射線に恐怖を感じる、被爆させるつもりかといった抗議が殺到、中止を余儀なくされた、といった事案も各地で起きた。

 国民の不安が解消しなければ、何一つ進まないという状況だ。たしかに原発の危険な一面はよく分かったし、まして放射線は目に見えない。だが、それは原発アレルギーなのだ。正しく怖がることも大切である。

この問題は今年も引き続き、私たちに突きつけられた課題だろう。

 私たちは被災地と地続きに生きている。私たちは被災者と地続きの同じ国に生きていて彼らの苦しみと向き合うことも、分かつことも出来うる同胞である。同胞同士で線引きしあって、被災地の物品にいたるまで敬遠する愚は慎まねばならない。

 さきほどのアンテナショップの例にしても大文字焼きのたいまつにしてもそうだ。放射性物質があるかないかで大騒動になった問題の根底には、何とも思い詰めたアレルギーによる不安がある。それを見つめることなく振る舞うことが如何に愚かしく心ないか、という自覚は持っていたい。口では復興だ、被災地を支えよ、頑張ろう、と掛け声をかけたところで、一方でこうした光景が繰り返されるのでは、復興などあり得ない。あれだけのがれきをどこかに運んで片づけなければ「東北の復興」など、スタートラインにすら立てないではないか。

暮らしへのしわ寄せ

 相変わらず次々と原発が停まっていき、一様に再稼働の兆しすら見えないことも夏場以降、深刻さを増す心配な点である。

 昨年12月26日に九州電力玄海原発の4号機が定期検査で運転がストップし、これで九州の原発は全てストップした。

 今年の春には全国すべての原発が停まる。原発が停まっても電力会社は電気を絶え間なく供給しなければならない。LNGなど火力発電にしわ寄せが行く。フル稼働が続いて、供給義務は果たしているのだが、これらは燃料高騰という形で必然的に跳ね返る。これらは電気料金へ上乗せされ企業や家庭をジワリと追いつめていく。電気料金のアップ率は定かではないが、20%ともいわれる。いよいよ、産業経済、国民生活へのしわ寄せが現実となりつつあるということだ。

東電に責任あれど…

 一部新聞に、原発が安価だというのは誤りだという社説が掲げられていた。東日本大震災を機に起こった事故を見ると、決して原子力発電はコスト安ではなく、安全対策などを加味すればむしろ高値であるというものだ。

 だから原発はやめるべきなのだろうか。千年に一度の大津波被害を想定していなかったのは、原発だけでは決してない。無論、今回の事故を受けて、安全性を高めるために津波対策を講じるのは当然であるのだが、問題はその程度である。

 もし想定できる全ての被害を未然に防がねばならないという前提に立つならば、岩手や宮城、福島3県及び、政府は巨大防潮堤を建設せずに多くの被災者を、最初から見捨てていたという理屈だってなりたつ。少し考えればわかるはずだが想定できたからといって、できる対策とできない対策というのは常にある。しかも災害というものは、その想定を越える形で常にやってくるものである。

 未曾有の事態を想定して、どんな対策を打つか。それはコストや合理性に照らして判断すべきである。

想定できるものは全部予防の対象として未然に防がねばならないという前提に立った主張は結果論であって、このような不用意で不当な批判が巷にはあふれているように思う。

リストラ要求にもひとこと

 料金値上げをするなら、東電はいっそうのリストラを、という主張も聞かされた。

 これも東電のリストラ自体がけしからん、というわけではない。しかし実は、こういう主張をメディアが持ち出す場合、霞んでしまう論点があることも記しておかねばなるまい。

 それはこういうことだ。当面、どうあがいても原発がなければ、電気を賄えない、もしくは賄えたとしても電気料金が跳ね上がって、庶民の暮らしに犠牲を強いることが必然である。従って明日、明後日といった当面の国民生活のためには、やはり原子力発電を何としても再稼働しなければ、電力の安定供給は不可能である、仮に今の原発を将来辞める選択を取るにしても、ここはいったん再稼働してくれなければ、今なし崩しで停めてしまえば社会に大きな停滞をもたらしかねない。

 恣意的なメディアによる原発バッシングが結局は、自分たちの社会の首をしめていることにほかならないということを意味している。電気料金の値上げはその始まりであって、さらなる社会の停滞をもたらしていくことも覚悟せねばならない。結局、東電はけしからんと批判することは簡単だが、批判の代償は、私たちの社会に漏れなく降りかかってくるのである。

 メディアは自分たちの主張が実は天に唾する行為であるとは認めたくない。だから、電気料金の値上げには東電のリストラが必要だ、などと結局は東電に矛先を向け、ハードルを課したがる。私にはそう見えるのである。

 原発を停めた分、火力発電をフル稼働しているから、一応今、需給は間に合っている。だが、それだって二酸化炭素排出量の問題、既存の環境政策への影響など既存の政策との整合性を考えれば、矛盾や齟齬に満ちている。電力が足りているからいいでしょ、では本来、済まない話であるが、誰もその点は咎めない。

正念場は今年の夏

 エネルギー経済研究所によると、電力需給の正念場は、原発全てが停止する事態に及ぶか否か。再稼働の有無にかかり、早ければ需給の正念場がまず今年の夏に訪れるという。

 何となく原発を遠ざけ、忌み嫌い、電気事業者を悪者にしておけば、事足りる。そういう状況が漫然と続き、不毛な時間が過ぎていっていいはずはない。原発をどうするか、という中長期的課題よりも、日常生活に必要な明日の電力確保に困らない状況を早急に構築すべきで、そのために原発は今なお必要不可欠な安定電源である。

安藤慶太 社会部編集委員